「博雅さま、人を喰らわぬ鬼などいるのでしょうか?」 御簾越しに、鈴を転がしたような声が男に尋ねた。
甘やかな香りがふくいくと香り、眩暈を起こしそうな気さえする。
季節は春であった。
穏やかな陽光を浴びて、柔らかな新芽が次第に葉の形をとりはじめ、鳥が気持ち良さそうに歌っている。
時折、桜の香が混じった風が吹いて、梅香の終わりを静かに告げていた。
明るい色の新緑はそのたびに さらさら と耳に心地良い音を立てる。
自然と笑みがこぼれるような気持ちの良い春の午後に、三位の中将博雅が聞いたのは、なんとも不似合いで
おそろしく、また奇怪な話であった。
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かんばせ
夜も深まり、花がそのその 顔 を抱くように眠る時刻、男が恋人のもとへ通うため牛車で二条大路を渡っていると、
ふいに車が止まった。
行き触れにでも会うたか、と男が供の舎人に声を掛けるが返事がない。
不審に思って外を見ると、声を出せずに震えながら道の先を舎人が指差していた。
春のもやの先には、一人の男の影が見える。
身の丈はそれほど高くもないが低くもなく、ほっそりとした体型である。
着ているものは古く汚れた麻の布地で、髪も乱れていた。
一目で身分卑しい夜盗だと思ったが、男が近づいてくると、それは間違いだとわかった。
男は帯刀していなかったのである。
ずるり、ずるり…と両足を引きずるように歩いてくる。
その顔には血の気がなく、白い頬にはヒビのようなものが入っており、耳まで裂けた口からは、二つに分かれた舌が青い炎とともにめろめろと出されていた。
――――――――――人ではない。これは鬼だ。
貴族は慌てて舎人二人を牛車の中に入れ、常に持ち歩いている尊勝陀羅尼を記した紙片を取り出して、つかんでいるように指示した。
近づいてくる鬼は、あれほど重そうに両足を引きずっていたのに、足音は聞こえない。
だが、次第に息苦しくなる瘴気のせいで、こちらへ寄ってきているのは確実に分かる。
いくら尊勝陀羅尼の霊験と言えど、声を出した瞬間に自分達の存在が知られてしまう。
むせ返りそうな澱んだ空気の中、三人は必死に息を殺してわっとなきだしそうなのをこらえていた。
「もうし、そこのお人」
人のものとは思えぬ声がしたかと思うと車の御簾がふわりと舞い上がった。
四角の窓から見えるもの……それは蛇に変化する途中の人のような顔であった。
男は悲鳴を飲み込み、目をつむった。
「もうし、いるのは分かっておる。早く返事をせぬか」
生臭い息を吐いて鬼は言った。
二つに割れた舌のせいで人語を喋るのは困難らしい。
言葉は時々つぶれた音に変わってしまっていた。
「頼みがあるのよ……聞いてはくれぬか」
鬼の意外な言葉に、思わず閉じていた目をあけて鬼をよく見てみた。
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