「その方、思わず声に出して『よし、聞こう』と答えてしまったのですって」

優しい声音から、女が笑んでいるのが分かる。

「なぜです」

博雅が不思議そうに尋ねると、御簾越しに軽い嘆息が聞こえた。

「鬼が泣いていたからだそうですわ。たいそう哀しそうに泣いているので、哀れに思い、鬼の言うままに車につないでいた牛を一頭、その鬼に差し上げたとか」
「牛……ですか。その他には何も?」
「ええ、その他には何も。そして鬼は『すまない』と一言だけ言って、その牛をさらって消えたそうです。

そこまで言うと、女は扇を静かに開いた。

「博雅さま…私は考えてしまうのです。なぜその鬼は泣いていたのか。なぜ男を喰らわなかったのか。本当に鬼であったのか…と」

博雅が何と返せばよいか分からずに唸ると、御簾の向こうからふふっ、という笑い声が聞こえた。
桜の香のような、優しい笑い声であった。

***********

「とまあ、こんな話を聞いたのだよ」

博雅は酒の入った杯を片手に、女から聞いた話を一部始終語った。
今、彼が見ているのは先ほどの庭とは異なる。
みずみずしい新芽が思うように伸びていて、人の手が施されていない。
春の陽光を浴びて、きらきら光る草をまぶしそうに見つめながら、博雅は杯を一気にあおった。
それを横目で見遣りながら、傍らに座している男が「それで」と先をうながした。

「それで?」

博雅が芸のない返し方をする。
この博雅と言う男、宮仕えをしている割に気の利いた科白を吐くのが下手で、よく言えば実直で、悪く言えば不器用な人間であった。

「その話を聞かせるためだけに俺の屋敷に来たのか、ということだ」

涼やかな瞳を人なつこそうに細めて、男が博雅の杯に酒を注いだ。
白磁のようにキメの細かい肌。うっすらと紅をひいたように赤い唇の、綺麗な男である。
品のいい直衣を着ている。
それもそのはず、彼も殿上人であった。しかも従三位である。
宮中では中々の発言力をもつ位であった。

「人を害してないなら俺のところへ来ることもないだろう。他にも何かあったのか」

舞い散る桜を眺めつつ、真っ白な頬をやや紅潮させて陰陽師の安倍晴明が言った。

「それよ。人を喰らわず牛だけさらうなら人でも出来る。だから俺は先月に聞いたこの話も、今日までお前には話さなかった」

冷やかされるからな、と小さく呟いた言葉を、晴明は聞こえないふりをした。
ただ朱色の唇に杯を運ぶ。
それは楽しそうに。

だが、そんな晴明を見ていない博雅は先を話し続けた。

「つまり、今話したのは一ヶ月前のことなのよ。そして今月もまた出たのだ。やはり同じ男らしくてな、今度は人の腕を喰ったらしいんだが…」
「どうした」
「吐き出したそうだ」
「吐き出した?」
「う、うむ……」

博雅も不審に思い、現場に行って詳しい話を聞いてみたが、聞けば聞くほど分からなくなってしまった。

†NEXT†
†BACK†
†TOP†

 

 

 

 

広告 [PR] 再就職支援 スキルアップ アルバイト 無料レンタルサーバー