カスタードレイン
蜘蛛の糸のような細い雨が、世界を包んでいた。 音はなく、空はただけぶるように白くぼやけている。気温は低く、少し肌寒い。 濡れた袖口やズボンのスソから絶え間なく熱を奪われているせいだろう。 小さく身震いをして、天堂成海は襟元をかき寄せた。 「お寒いですか? 暖房を強めましょうか?」 彼の動きに気づいた運転手が、肩越しに問い掛けてきた。だが、成海はそれを断り、軽く礼を言うだけにした。 「きっと風邪でもひいたんだろう。もうすぐ家に着くからこのままでいいよ」 「じゃあ、後ろにひざ掛けをご用意してありますから、それを使ってて下さい」 その言葉に従って、成海は後ろの収納スペースを覗いてみた。 「あの若いメイドさんがね、用意しといてくれって。ホント、仕事熱心でよく気が付く娘ですね。えーっと、なんて言いましたっけ、彼女はえ〜…」 「まちこ。三村真知子さんだよ。田嶋さん、彼女ももう2年目になるんだから名前も覚えてあげないと可愛そうだよ」 苦笑して成海はひざ掛けを掛けた。 「どうもこの歳になると物覚えが悪くって…」 そう言って田嶋は、手袋をはめた手で最近白髪が目立ち始めた後頭部を決まり悪そうに掻いた。 「さ、着きましたよ。早く温かくしてもらってくださいね」 「ありがとう」 なるべく主人を濡らさないように、階段よりにぴったりとつけて車は止まった。 「お帰りなさいませ」 弾む声が成海を出迎える。 「お部屋の暖炉に火を入れておきました。そこでお着替えください。今、紅茶もお淹れしますね」 成海の背中からトレンチコートを脱がすと、真知子はにっこりと微笑んだ。 「茶葉は何がいいですか?」 「ディンブラを。ああ、それからブランデーを入れてくれないか。少し寒い」 彼の悪寒は未だ収まらず、むしろ目に見えて鳥肌が立つほど強くなっていた。 「まあ。風邪をひかれたんですね。お酒はお控えください。代わりに何かスープを作ってお持ちしますから」 「食欲なんてないよ」 困ったような顔をして反論してみるが、彼女はあっけなく却下した。 「お薬を飲むためです。我慢して下さらないと」 「…やれやれ。参ったな」 成海もそれ以上は反論せずに、大人しく自室へ向かった。 「失礼します」 まだ湯気が昇るスープを盆に載せ、真知子は主人の部屋のドアをノックした。 「お加減いかがですか?」 早々と寝間着に着替えてベッドで休む主人に声を掛ける。 「久しぶりすぎてよく分からないよ。寒気は少し減ったけど、代わりに頭がぼんやりする」 「熱が出てきたのかもしれませんね。失礼…」 盆をテーブルに一度置くと、彼女はそっと成海の額に手をやった。 「…冷たいな」 「あ、すみません。水仕事をしていたので」 「いや、気持ちいいよ。…やはり熱かな」 成海が本当に気持ちよさそうに目を細めるので、彼女の鼓動が一拍大きく鳴った。 「た、体温計をお持ちします。その間にスープを召し上がってて下さい」 「…あれかい?」 成海の視線の先には、野菜がたくさん入った作りたてのスープがある。 「あれです」 彼女がそれを肯定する。 「…カブ1切れだけじゃダメかな」 今度は自信のない顔をして真知子を見る。 「出来ればジャガイモとニンジンとカリフラワーも食べてください」 彼女は主人にスプーンを手渡す。 「…努力するよ……」 「期待してますわ」 まだ言いたげな視線を流して笑顔でとどめを刺すと、真知子は体温計を取りに部屋を出た。 一方―――― 「………びっっくりした…っ」 それまでの冷静な顔はどこへやら。 「せっかくお仕事してるのに……ひどい…」 締め付けられる胸の痛みは、もうずっと前から抱えているもの。 「…あんな顔、ズルイ…」 忘れようとしているのに、こんなにドキドキしてしまう自分が情けなかった。 「…早くしなきゃ……」 寄りかかっていた身体を壁から離して歩き始めた頃には、彼女の表情には落ち着きが戻っていた。 真知子は、成海が食事を済ませると熱を計らせて薬を飲ませた。 テーブルに並べられたものは、卵と砂糖と牛乳。そしてプリン型。 急いで玄関に向かう。 「先生、お待ちしてました」 「様子はどうだね?」 慣れた様子で彼女にコートをあずけ、先生と呼ばれた彼はバッグを片手に屋敷の奥へと歩く。 「30分ほど前に休まれたところです。熱は37.5度でした。今はもう少し上がっているかもしれません」 それを聞くと、男性は右の眉だけを器用にもちあげた。 「ほう、成海君にしては珍しい。どこかでウイルスでももらってきたかな?」 何やら楽しそうに軽快な足取りで階段を上がる。 「昨日のお取引先で、先方がやたらくしゃみをするので閉口したとおっしゃってました」 それは、仕事から帰ってきた主人から聞かされた話だ。 「はっはっはっ。成海君のことだ、きっと絵の前に守るように立って、代わりに全身に浴びてきたんだろうな」 「…私もそう思います」 何とも言いがたい気持ちで彼女は肯定する。 そんな主人の熱心さは真知子も好きであったが、このような場合はさすがに一言二言も言いたくなってしまう。 「どうやら、メイドさんも苦労が絶えないようだね」 彼女の眉間に皺を発見して、男性は苦笑いをした。 「ご主人様、小早川先生が来て下さいました」 決して大きくはない声だったが、成海は小早川という名前にすぐに反応した。 「ん…あ…小早川先生…すみません、こんな格好で…」 急いで起き上がろうとするのを手で止めて、初老の男性はベッドの傍に座った。 「構わんよ。君は病人で、私は医者なんだからね」 口ひげごとニッコリと笑って、小早川はバッグから道具を取り出すと、よどみない動きで検診を始めた。 「さてメイドさん、君にはこの薬を預けておこう」 診察を終えた小早川は、錠剤が入った袋を真知子に渡した。 「注射を一本打ったので熱はすぐに下がると思うがね。抗生剤を食後に飲ませるように。あとは温かくして、 「はい。分かりました。先生、ありがとうございました」 運転手の田嶋に彼を送らせると、真知子は成海の部屋に控えることにした。 「プリン、美味しく出来ましたよ。これなら食べてくれますよね?」 と。 |
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