カスタードレイン

 

   
   蜘蛛の糸のような細い雨が、世界を包んでいた。
 音はなく、空はただけぶるように白くぼやけている。気温は低く、少し肌寒い。
 濡れた袖口やズボンのスソから絶え間なく熱を奪われているせいだろう。
 小さく身震いをして、天堂成海は襟元をかき寄せた。

 「お寒いですか? 暖房を強めましょうか?」

 彼の動きに気づいた運転手が、肩越しに問い掛けてきた。だが、成海はそれを断り、軽く礼を言うだけにした。
 なぜなら、先ほどから充分に車内は温められているのである。
 足先に吹き付けてくる温風や、シートの温もりは通常なら適温のはずだ。
 だが、彼は顔だけが火照り、背中を伝う悪寒は止まらない。

「きっと風邪でもひいたんだろう。もうすぐ家に着くからこのままでいいよ」

「じゃあ、後ろにひざ掛けをご用意してありますから、それを使ってて下さい」

 その言葉に従って、成海は後ろの収納スペースを覗いてみた。
 確かに成海好みのキャメル色をしたそれが畳んで入れられている。
 触れば、ふんわりと手触りが良い。

「あの若いメイドさんがね、用意しといてくれって。ホント、仕事熱心でよく気が付く娘ですね。えーっと、なんて言いましたっけ、彼女はえ〜…」

「まちこ。三村真知子さんだよ。田嶋さん、彼女ももう2年目になるんだから名前も覚えてあげないと可愛そうだよ」

 苦笑して成海はひざ掛けを掛けた。
 ようやく今、門の中に入ったから、あと5分ほどで屋敷に着くだろう。
 その間、震えっぱなしという事態を避けられるのはありがたいことだった。

「どうもこの歳になると物覚えが悪くって…」

 そう言って田嶋は、手袋をはめた手で最近白髪が目立ち始めた後頭部を決まり悪そうに掻いた。
 こちらからは見えないが、きっと顔を赤くさせているに違いない。

「さ、着きましたよ。早く温かくしてもらってくださいね」

「ありがとう」

 なるべく主人を濡らさないように、階段よりにぴったりとつけて車は止まった。
 後部座席の自動ドアが開くと、小走りで成海は階段を駆け上る。
 ちょうど最上段に右足が乗るのと、目の前の玄関の扉が開くのが同時だった。

「お帰りなさいませ」

 弾む声が成海を出迎える。
 立っていたのは、先ほどの会話にも出てきたメイドの真知子であった。
 主人を迎える犬のように嬉しそうな顔をしている。

「お部屋の暖炉に火を入れておきました。そこでお着替えください。今、紅茶もお淹れしますね」

 成海の背中からトレンチコートを脱がすと、真知子はにっこりと微笑んだ。

「茶葉は何がいいですか?」

「ディンブラを。ああ、それからブランデーを入れてくれないか。少し寒い」

 彼の悪寒は未だ収まらず、むしろ目に見えて鳥肌が立つほど強くなっていた。
 無論、メイドは主人の紫色に変色した唇を見逃さない。

「まあ。風邪をひかれたんですね。お酒はお控えください。代わりに何かスープを作ってお持ちしますから」

「食欲なんてないよ」

 困ったような顔をして反論してみるが、彼女はあっけなく却下した。

「お薬を飲むためです。我慢して下さらないと」

「…やれやれ。参ったな」

 成海もそれ以上は反論せずに、大人しく自室へ向かった。
 素直に従う主人の後姿を見送ると、真知子は大急ぎでコートを定位置に掛けるとキッチンへ駆け込む。
 昼間から煮込んだ快心のシチューは食べてもらえそうにない。
 それが少し残念だったが、それよりも珍しく体調を崩した主人の方が心配だった。

「失礼します」

 まだ湯気が昇るスープを盆に載せ、真知子は主人の部屋のドアをノックした。
 部屋からは、簡単な許可が返ってくる。
 彼女は静かにドアを開いた。

「お加減いかがですか?」

 早々と寝間着に着替えてベッドで休む主人に声を掛ける。
 退屈なのか、手に持っていた小説を伏せて、成海は何ともいえぬ顔をした。

「久しぶりすぎてよく分からないよ。寒気は少し減ったけど、代わりに頭がぼんやりする」

「熱が出てきたのかもしれませんね。失礼…」

 盆をテーブルに一度置くと、彼女はそっと成海の額に手をやった。

「…冷たいな」

「あ、すみません。水仕事をしていたので」

「いや、気持ちいいよ。…やはり熱かな」

 成海が本当に気持ちよさそうに目を細めるので、彼女の鼓動が一拍大きく鳴った。
 真知子は慌てて空いた手を自分の額にやる。確かに少し熱があるようだ。
 それだけ確かめると、真知子は急いで成海から手を退けた。
 緊張して手汗をかいたりしたら、不審がられてしまう。

「た、体温計をお持ちします。その間にスープを召し上がってて下さい」

「…あれかい?」

 成海の視線の先には、野菜がたくさん入った作りたてのスープがある。

「あれです」

 彼女がそれを肯定する。

「…カブ1切れだけじゃダメかな」

 今度は自信のない顔をして真知子を見る。

「出来ればジャガイモとニンジンとカリフラワーも食べてください」

 彼女は主人にスプーンを手渡す。

「…努力するよ……」

「期待してますわ」

 まだ言いたげな視線を流して笑顔でとどめを刺すと、真知子は体温計を取りに部屋を出た。
 残された成海は、よく煮えたカブをスプーンで切り分けつつ「迫力負け…」と呟くのだった。

 一方――――

「………びっっくりした…っ」

 それまでの冷静な顔はどこへやら。
 成海の部屋を出た彼女は、まだドキドキいっている心臓に手をやって壁に寄りかかっていた。
 その手は先ほど彼の額に触れられたものだ。

「せっかくお仕事してるのに……ひどい…」

 締め付けられる胸の痛みは、もうずっと前から抱えているもの。
 ずっとひた隠しにしなければならないもの。
 気づかれてはいけないと毎日平気な顔をしているのに、今回のようなことがあると、すぐにその顔を出してしまう。

「…あんな顔、ズルイ…」

 忘れようとしているのに、こんなにドキドキしてしまう自分が情けなかった。
 自分の葛藤に全然気づかない彼の呑気さは救いではあるけれど、やはり少し憎らしくもある。

「…早くしなきゃ……」

 寄りかかっていた身体を壁から離して歩き始めた頃には、彼女の表情には落ち着きが戻っていた。

 真知子は、成海が食事を済ませると熱を計らせて薬を飲ませた。
 よっぽどだるいのか、成海は大人しく彼女の指示に従っている。
 すこし顔を赤くしてベッドに横になると、数分もしないうちに寝息を立て始めた。
 それを起こさないように彼女はそっと部屋を出ると、台所にまた戻って何かを作り始めた。

 テーブルに並べられたものは、卵と砂糖と牛乳。そしてプリン型。
 どうやら病人のためにプリンを作るらしい。
 口当たりがよく高栄養価なため病中食に向いていると判断したんだろう。
 手際よくカラメルソースを作り蒸し器に入れる頃、控えめにドアベルが鳴った。

 急いで玄関に向かう。
 そこに立っていたのは初老の口ひげを生やした男性だった。

「先生、お待ちしてました」

「様子はどうだね?」

 慣れた様子で彼女にコートをあずけ、先生と呼ばれた彼はバッグを片手に屋敷の奥へと歩く。

「30分ほど前に休まれたところです。熱は37.5度でした。今はもう少し上がっているかもしれません」

 それを聞くと、男性は右の眉だけを器用にもちあげた。

「ほう、成海君にしては珍しい。どこかでウイルスでももらってきたかな?」

 何やら楽しそうに軽快な足取りで階段を上がる。
 その後ろにぴったりとくっついてゆく真知子は、逆に面白くなさそうに答える。

「昨日のお取引先で、先方がやたらくしゃみをするので閉口したとおっしゃってました」

 それは、仕事から帰ってきた主人から聞かされた話だ。

「はっはっはっ。成海君のことだ、きっと絵の前に守るように立って、代わりに全身に浴びてきたんだろうな」

「…私もそう思います」

 何とも言いがたい気持ちで彼女は肯定する。
 実は天堂家の主人は、自他共に認める絵画バカなのである。
 趣味が高じて始めた仕事なので絵画に対する愛着心も並外れている。

 そんな主人の熱心さは真知子も好きであったが、このような場合はさすがに一言二言も言いたくなってしまう。
 少なくとも天堂家を仕切るメイドとして、主人の身を案じて多少の諫言をしても良いと思う。

「どうやら、メイドさんも苦労が絶えないようだね」

 彼女の眉間に皺を発見して、男性は苦笑いをした。
 真知子は肩をすくめて主人の部屋のドアを開ける。

「ご主人様、小早川先生が来て下さいました」

 決して大きくはない声だったが、成海は小早川という名前にすぐに反応した。

「ん…あ…小早川先生…すみません、こんな格好で…」

 急いで起き上がろうとするのを手で止めて、初老の男性はベッドの傍に座った。

「構わんよ。君は病人で、私は医者なんだからね」

 口ひげごとニッコリと笑って、小早川はバッグから道具を取り出すと、よどみない動きで検診を始めた。
 それの邪魔にならないように真知子は軽く一礼すると、部屋を出る。
 そして診察が終わるまで部屋の外で控えているのだった。

「さてメイドさん、君にはこの薬を預けておこう」

 診察を終えた小早川は、錠剤が入った袋を真知子に渡した。

「注射を一本打ったので熱はすぐに下がると思うがね。抗生剤を食後に飲ませるように。あとは温かくして、
うんと栄養をつけさせるんだよ。君の腕の見せ所だ」

「はい。分かりました。先生、ありがとうございました」

 運転手の田嶋に彼を送らせると、真知子は成海の部屋に控えることにした。
 成海はというと、気の張る来客が退室して安心したのか、またウトウトし始めている。
 おそらく打った注射が利いているのだろう。呼吸も落ち着き始めた。
 静かな寝顔を見て安心すると、真知子はそっと囁くのだった。

「プリン、美味しく出来ましたよ。これなら食べてくれますよね?」

 と。

 

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