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   そして小早川が帰ってから小一時間後。
 さざめきのような雨音から車のエンジン音が混じって聞こえてきた。
 何の連絡も聞いていない真知子は当然不審に思って窓から外を覗く。
 天堂家は基本的に約束のない来客は歓迎しないのである。

「…小早川先生のお車だわ」

 乗り付けてきた車が見慣れたものであることに気づき、真知子は慌てて玄関まで迎えに走った。
 大事な来客に寒い思いはさせられないので到着に間に合わせて玄関を開ける。

「まぁ、びっくりした!」

 だが車から出てきたのは、文字通り目を丸くした若い女性だった。

「沙織さま!」

 びっくりしたのは真知子も同じである。
 珍しく素っ頓狂な声をあげてしまった。

「マチちゃん、お久しぶりね。あーでも本当にびっくりしたわ。ドアが急に開くんですもの」

  おっとりした口調で喋る女性の名は、小早川沙織。
  先ほどこの屋敷に現れた小早川医師の一人娘であり同時にこの天堂家の近い将来の奥方であった。

「申し訳ございません。窓から車が見えたものですから…」

 真知子はメイドとしての職務を遂行しただけであるが、それでもあんなに驚かれてしまうと、とても申し訳ない気持ちに
 なってしまう。

「まぁ。そうだったの。私、何のご連絡も差し上げてなかったから出迎えてもらえるだなんて思ってなくて。ごめんなさいね。
マチちゃんも驚いたでしょう?」

 気さくに話して笑う女性は、主人にふさわしい素敵な女性だと真知子は思った。

 成海も人当たりのいい性格で愛嬌のある人間だが、この沙織もまた、大らかで人に好かれる性格をしている。
 家柄も良く、容姿だって問題もなく、何より主人に愛されている。
 主人の婚約発表を聞いた時も、彼女なら心から幸せを祝福できる。そう思った。

 そう思ったから…まだ胸に巣食う想いが痛い。

「それよりも、どうなさったんですか? ご連絡なしにいらっしゃるなんて珍しい。ご存知の通りご主人様は今臥せっておいでですが…」

「あっ、そうなの。父からお話を伺って心配で…。何のお手伝いも出来ないけれど、せめてお見舞いだけでもと思ったものだから」

 そこまで言うと、沙織は大事そうに抱えていた袋を手渡した。

「はい、これ。成海さんにお大事にって、マチちゃんから伝えてくれる?」

 袋からは何やら懐かしい甘い香りがする。

「プリンは栄養があるって聞いたものだから、急いで作ったの。ちょっと作りすぎちゃったから、良ければマチちゃんも食べて頂戴」

 屈託のない笑顔の言葉に、真知子はただ絶句するしかない。
 袋から漂う匂いは、自分も今さっきまで作っていたものと同じものだったのだ。

「それじゃ、あまり長居をするとお仕事に邪魔になっちゃうから失礼するわね。これだけ渡したかっただけだから」

「あ…は、はい。ご主人様もきっと喜ばれることでしょう。ありがとうございます」

 ショックを隠せないまま慌てて頭を下げると、沙織は照れて笑った。

「ねぇ、マチちゃん。わたし本当はね、あなたが羨ましいのよ」

「は?」

 予想もしない台詞に、さすがに真知子も真顔で聞くしかなかった。

「だってあなたは何だって出来るから、こんな時も成海さんの傍について看病が出来るじゃない? それでなくても毎日あの人とご一緒できるんだもの。羨ましいわ」

「…それが仕事ですから」

 真知子にすれば、そう答えるしかない。

「私もマチちゃんみたいだったら良かったのに。そうしたら、成海さんの好きなものをいっぱい作れるのにね」

 少女のように頬をバラ色に染めて紡ぐ彼女の言葉は、真知子にすれば荊の棘である。
 無邪気であるがゆえに、余計にその言葉は真知子には痛かった。
 けれど彼女もまた天堂家のメイドである。
 胸の痛みなど微塵も見せずに真知子はにっこりと笑った。

「沙織さま、ご存じなかったようですが、プリンはご主人様の大好物ですよ」

「まぁ、本当?」

 驚いた顔はどうやら芝居ではないらしい。
 本当に彼女は何も知らずに作って持ってきたようだ。

「はい。ですから、きっとお喜びになるはずです」

「嬉しい! ああ、マチちゃん、それを聞いてホッとしたわ。ありがとう」

 沙織は、満面の笑みを浮かべてお辞儀をすると玄関のドアを自分で開けた。

「それじゃ、本当に失礼するわね。…どうぞお大事に」

 最後の台詞は恋人の部屋を向いて言うと、彼女はまた小走りで車に乗って帰っていった。
 客人の消えた玄関はまるで花が消えたようになり、真知子はそっとドアを閉める。
 手の中にあるのは、冷たい霧雨を吸って濡れた袋が一つ。懐かしいカスタードの香りを放っている。

「あーあ……たまんないわ」

 苦笑混じりに呟くと、真知子は台所へ行き、自分で作ったプリンを取り出して替わりに婚約者の作ったそれを入れた。

「…田嶋さん、食べるかな?」

 ふと運転手の顔を思い出す。たしかあの男性は甘いものが好きだったはずだ。
 家族もいるから、多く渡しても食べてもらえるだろう。
 真知子は田嶋に全てあげることにした。

 主人が目を覚ます前に、自分の作ったプリンは消滅していなければならない。
 最初から存在しなかったように。
 そうでもしなければ、あの心優しい人たちは、きっと自分の作ったプリンを食べてしまうから。
 そんなことをされたら、また自分だけ哀しい思いをしてしまう。
 そんなのは嫌だった。

 それに、沙織の手製を食べた時に心から「美味しいですね」と言いたかったから、真知子はプリンの事を忘れることにした。
 明日になれば主人の容態も良くなって、明後日になれば小早川父娘をこの屋敷に招くだろう。
 メイドは忙しいのである。

 早々と気持ちを切り替えて、彼女は主人の部屋に入ると次々とカーテンを閉めていった。
 窓の外は、絹糸の雨がまだ降り続いている。
 真知子は最後のカーテンを閉めると、ベッドから少し離れたところで控えているのだった。

・ END ・

 

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