V

 

  「クラヴィスさま?」

 約束どおりにアンジェリークは 午後クラヴィスの執務室に現れた。
 甘やかな匂いを放つ焼き菓子を持って。

「アンジェリーク?」 

 室内にいたのはクラヴィスと、もう一人 水の守護聖リュミエールであった。
 ハープの弦の上を滑らせていた細い指を止めて、こちらを見てる。
 少し驚かせてしまったようだ。だが、少女は悪びれずに笑顔で挨拶する。

「こんにちは、リュミエールさま」
「こんにちは。アンジェリーク。 素敵な笑顔ですね。 今日は育成ですか? 私は席を外したほうが よろしいようですね」

 立ち上がろうとしたとき、部屋の主が一言 「構わぬ」 とだけ言った。その声にリュミエールは視線をアンジェリークに向けて了解を求める。
 端正な顔が、不安げに曇っていた。

「ええ、リュミエールさま どうぞそのままいらして下さい。今日は育成のお願いじゃないんです。クッキーを焼いたので、召し上がって頂きたくて」

 はにかみながら、彼女はきれいにラッピングした箱を差し出した。

「おいしそうな匂いですね。私もいただいて よろしいですか?」
「もちろんです。リュミエールさま」

 ほのぼのとした会話を聞きながら、クラヴィスは面白くなさそうに黙っていた。

「クラヴィス様も召し上がってください」

 くるりと急にこちらを向かれて、彼は心底どきりとする。

「私はお茶の用意をしてきますね」

 気を利かせてリュミエールが席を外した。
 それを目で追って、クラヴィスは 遠慮なく苦虫を噛み潰した顔をする。
 波立つ自分の心を苛立たしく思った。
 そして、なぜ自分がこうも落ち着かないのかも気づいてしまった。

「昨日のお礼のつもりなんです」
「そうか…」

 駄目だ。

 思わず口に出しそうになって、クラヴィスは愕然とする。
 頭の奥で警笛が鳴り響く。

 この花のような少女は、傍にいるだけで自分のメビウスの環を断ち切ってしまう。
 時の鎖でつながれたメビウスの環を。
 奪うばかりの果てない時間の渦を。
 出口のない思案の迷宮を。

 これ以上、この少女と関るのは、ほころびを大きくするだけだ。
 この少女は、自分を変えてしまう。
 それは自殺行為に近い。変わらぬことで耐えてきた自分には。
 そう、分かっているのに。

「…お前は人の限界について考えていたと言ったが…」

 視線がぶつかって、男は身動きがとれなくなった。
 女王候補は、真摯な顔をして、聞き漏らすまいと 真っ直ぐに男を見る。
 男はひきずられるように言葉を紡ぐ。
 メビウスの環をほどいて。
 慎重に言葉を選んで。

 覚悟を決める。

「…限界があると同時に、各人の役割というものがある。その者にしか出来ないことがある。
…お前がいなければ、私は あのひな鳥を救う術を知らなかった……そういうことだ…」

 アンジェリークが大きな瞳を瞬かせたと思うと、くしゃっと笑った。
 言葉はなく、ただ嬉しそうに笑った。

 覚悟はしていたが、その衝動は やはり大きなものだったらしい。
 クラヴィスはその笑顔の破壊力にくらくらしながら、砂塵と化すメビウスの環を見送った。
 彼は自覚せざるを得なくなった。
 自分はこの女王候補を 一人の異性として意識している…惹かれていると。

 環は絶たれた。
 繰り返される日常は もう求めても どこにもない。

 この少女の時間は決して繰り返されることはないだろう。
 闇に呑まれることもない。
 迷っても道を過たずに進んでゆける。その力がある
 ―――――彼女は 女王候補なのだから。

「お待たせして すみません」

 リュミエールが静かにクラヴィスの思考を断った。
 なぜかそのことにクラヴィスは ほっと安心のため息をつく。
 彼の様子を見て、リュミエールはにっこりと笑った。
 決まり悪げにクラヴィスは そっぽを向く。

「リュミエールさま、お手伝いします」
「ありがとう、アンジェリーク。ではカップを並べて下さいますか?」
「はい」

 嬉しそうにカップを並べる彼女を見て、リュミエールは我慢できずに訊いてみた。

「何か良いことでも あったのですか? 今日のあなたは、何だかとても幸せそうですね」
「はいっ。 クラヴィスさまから頂いた お言葉が嬉しくて」

 アンジェリークの返事が意外にストレートだったことに リュミエールは驚いたが、視界の端で これでもかと首をねじってそむけた人物を見て
必死で笑いを こらえた。

「…っ それは…良かった、ですね…っ」
「? はい」

 不思議そうに首をかしげる少女を、リュミエールはこの時 初めてすごいと思った。
 彼女なら、誰もなし得なかった、想像もしなかった変化を自分達に起こすかもしれない。
 未知の驚きを、自分達に与えてくれるかもしれない。
 その響きは、リュミエールにとっても魅力的であった。

「クラヴィスさま、一緒にアンジェリークのクッキーをいただきましょう」
「…わかった」

 少しだけ、彼女に期待しよう。
 水の守護聖は微笑を浮かべて闇を守護聖を見た。
 男の瞳がいつもより光を多く含んでいることを、リュミエールは見逃さなかった。

   Fin

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