第十一夜

 

「…夢やもしれん」

自分の声で目が覚めた。何と言つたかは覚えていない。
さして気にせずに、布団の中で寝返りをうつた。
部屋は暗い。夜中に目覚めるなど滅多にないのだが、更に珍しいことにすぐに寝付けなかった。
横になりながら、何度か強くまばたきをする。寝返りもうつてみる。どうにも落ち着かない。
目覚めてからずっと、違和感がつきまとつていた。自分の身体が、どうにも『しつくり』いかないのである。
丁度子供が大人の服を着せられて動きづらそうにしているような感じである。
しかし家内を起こしてしまうので、仕方なく仰向けになって眸を閉じた。
半睡半醒の中で、先刻の夢を想い起こす。
懐古の情と、戦慄の狭間で。
まだ何も気づかぬままに。

家内が三つ指をついて慇懃に頭を下げた。
何をかしこまっているのだろうと思いながら、ゆっくりと上げられた家内の顔を見て、はつ、とした。
驚くほど白いのである。
染み一つない新雪のような肌で、紅をひいた唇をうつすらと開けているその様子は艶かしかった。

「あなた」

鈴の鳴るような声で、家内が言つた。

「もう…私たちだけですわ」

その声にうつとりしながら、自分は「そうかね」と答えた。

「私、幸せでしたわ。あなたに嫁いで、息子を産み、育てて……。
でも、もうお別れせねばなりません」

自分は慌てて尋ねた。

「別れるつて、いつたいなぜだね。どんな落ち度があつて、お前と離縁せねばならんのかね」
「離縁ですつて」

家内は驚いて一度大きくまばたきをしたあと、口に手を添えて、ふふつ、と美しく笑つた。

「あなたがご冗談なんて、珍しいこと」

自分は、目の前の美しい女が、果たして本当に自分の妻なのか自信がなくなつてきた。
すると女が急に笑うのをやめて、真剣な顔で自分を覗き込んだ。

「まさか、お忘れになつたの。あなた」
「忘れるも何も……。いつたい何のことだね」

自分は狐に化かされているのだろうか。
けれど女はいたつて真剣だつた。
自分の言葉に顔を真つ青にして、ああ、と言つた。

「何もご存知ないのですね。そう…ならば酷かもしれません」

伏目がちの黒い眸に涙をためて、女は厳かに言つた。

「私たちは夢の住人。今、私たちを夢見ている本体が目覚めようとしているのです。
ですから、私たちはもう消えなければならないのです」
「夢だつて?」

今度は自分が驚く番だつた。

「何をもつて夢だなどと言うのかね。生まれてからずつと今まで、今時分さえ、これでも夢だと言うのかね。
こんなに感覚がはつきりしているのに」

終いには語調が荒々しいものになつていた。
けれど女は最初からと同じ口調で静かに 「もう、時間ですわ」 と言つた。

「運命だとお思いなさいな、あなた。前に私におつしゃつたじゃありませんか。ほら、
『いつか大きな変化が来るのを待つている』つて。それが今日だつただけですわ」

確かにそんなことを言つた記憶がある。

「だが、こんなことは望んではいないのだよ」

すがる思いで呟いた。すると女は

「往生なさいませ」

と艶麗に破願した。

「また、お前に逢えるかね」

知らぬ間に、尋ねていた。けれど女はただ微笑むだけで、そのまますう、と消えた。
影すら残していかなかつた。

漏れてくる光で、目が覚めた。
夢の感覚を引きずりながら、さつきの違和感の正体に気づいた。

音、がないのである。
隣からいつも聞こえてきる規則的な呼吸音もしなければ、毎朝来る新聞配達の自転車をこぐ音もしない。
自分の衣擦れの音しかしないのである。
不安になつて、家内を探した。
いない。
家内どころか、人っ子一人見当たらない。
ふと、夢の中での家内のセリフを思い出した。

―――もう私たちだけですわ――――…

「そういうことか」

わざと声に出した。
無音というのはひどく気味が悪いものである。
自分は言い様のない恐怖に駆られながら、道に並んで建つ家々を茫然と眺めた。

まだ自分は連載中の小説が三本もあつたし、もうすぐ初の単行本が出版されるはずだつた。
そんなことを思つていると、先送りしていたやりたいことが一気に押し寄せてきた。

息子に会いたかつたし、母にだつて孝行をしたかつたし、寝かせておいた秘蔵の酒だつて飲みたかつたし…
そして何よりも、自分はここに在りたいのだつた。
いやしかし。ここが現実であるという証拠がどこにあるのだろう。
もはや感覚すらあてにはならない。
これは現実なのだと、ずつと思つていたけれど。
あるいは。

「…夢やもしれん」

呟いた瞬間、自分は消えていた。

   

 

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