第十一夜 |
「…夢やもしれん」 自分の声で目が覚めた。何と言つたかは覚えていない。 家内が三つ指をついて慇懃に頭を下げた。 「あなた」 鈴の鳴るような声で、家内が言つた。 「もう…私たちだけですわ」 その声にうつとりしながら、自分は「そうかね」と答えた。 「私、幸せでしたわ。あなたに嫁いで、息子を産み、育てて……。 自分は慌てて尋ねた。 「別れるつて、いつたいなぜだね。どんな落ち度があつて、お前と離縁せねばならんのかね」 家内は驚いて一度大きくまばたきをしたあと、口に手を添えて、ふふつ、と美しく笑つた。 「あなたがご冗談なんて、珍しいこと」 自分は、目の前の美しい女が、果たして本当に自分の妻なのか自信がなくなつてきた。 「まさか、お忘れになつたの。あなた」 自分は狐に化かされているのだろうか。 「何もご存知ないのですね。そう…ならば酷かもしれません」 伏目がちの黒い眸に涙をためて、女は厳かに言つた。 「私たちは夢の住人。今、私たちを夢見ている本体が目覚めようとしているのです。 今度は自分が驚く番だつた。 「何をもつて夢だなどと言うのかね。生まれてからずつと今まで、今時分さえ、これでも夢だと言うのかね。 終いには語調が荒々しいものになつていた。 「運命だとお思いなさいな、あなた。前に私におつしゃつたじゃありませんか。ほら、 確かにそんなことを言つた記憶がある。 「だが、こんなことは望んではいないのだよ」 すがる思いで呟いた。すると女は 「往生なさいませ」 と艶麗に破願した。 「また、お前に逢えるかね」 知らぬ間に、尋ねていた。けれど女はただ微笑むだけで、そのまますう、と消えた。 漏れてくる光で、目が覚めた。 音、がないのである。 ―――もう私たちだけですわ――――… 「そういうことか」 わざと声に出した。 まだ自分は連載中の小説が三本もあつたし、もうすぐ初の単行本が出版されるはずだつた。 息子に会いたかつたし、母にだつて孝行をしたかつたし、寝かせておいた秘蔵の酒だつて飲みたかつたし… 「…夢やもしれん」 呟いた瞬間、自分は消えていた。 了 |
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