散華

  空気の冴え渡った、澄んだ夜だった。
月の光が確かに男の身体に染み込んでいた。
皓く、冷たい。
木の葉はほとんど散っていて、仰げば容易に星が見える。

男は寝所をさがしていた。彼には家がなかった。
幼少に山にすてられ、山狐を母に育てられた。

五つのときに山に来た猟師に発見され拾われたが、一年足らずで男はそこから逃げ出した。
「オトナ」という人間が、母を殺したのを目の当たりにして自分も殺されるのだと認識したためである。

実際「ヒト」としての生活は酷いもので、到底 獣に育てられた彼には無理だったのだ。
近所の子供たちからは、枝で叩かれ、石を投げられ、川に落とされた。
悪意よりも、殺意の方が男と気が合った。

ある日人間の喉笛を引き裂いて、男は山へ逃げた。
もう、あれから何年経ったか分からない。
男の身体は五つのときより2倍近くになり、二足歩行を覚え、生きることを学んだ。

人間の言葉は詳しくは分からない。
ただ、たまに通る猟師や行商が交わす言葉がようやく分かるくらいである。

男は、乾いた落ち葉を慎重に踏みしめる。
罠の存在も確認する必要がある。
そうして先へ進むと、男はある建物を見つけた。
月光の中、はっきりと その形が映し出される。
小さな寺のようであった。

物音は聴こえない。微かに女物の香の匂いが漂っている。
男は音を立てずに邸に上がりこんだ。
よほど人が来ないのか、戸が開いている。男は好都合とばかりにその部屋へと入っていった。
鮮やかな色づかいの几帳が立ててあり、その奥には女が寝ている。
ほのかな月明かりに照らし出されるのは、妙齢の、艶美な女だった。

肩につく辺りで きれいに髪が切りそろえられた尼であった。
男はそこまでは分からずとも、そこらの女とは違うことくらいは分かったらしい。
興味をそそられて、男はその美しい女をもっとよく見ようと忍び寄った。

と、女が突然眼を開けた。侵入者に気がついて、驚いて起き上がる。

月の光が すう、と吸い込まれていくその瞳が、男の影を捉えた。
じっと、男を見つめて動かない。
男は男で、この女から目が離せなくなっていた。

柔らかそうな肌。瑞々しい、匂うような妖艶さ。
女を見つめているうちに、男は体の芯が熱くなっていくのを感じた。

―――――本能的な欲望だった。

女が、ひそめていた息をふっと弱く吐き出したとき、男は抑えきれずに女を押し倒した。
女は少しも抗わず、その間 一言も喋らなかった。
悲鳴すら、あげなかった。
どうにも様子がおかしいと思ったが男は夢中のため気がつかない。
男は誰に教わったわけでもなく一心に女を求め、そのしなやかな腰をかき抱いた。
そうして、ようやく女は喋れぬのではないかと気づいたとき、女はつう、と男を見てにやりと笑い

「契ったね。……お前は私と契ったのだね」

と低い声で囁いた。

血の気が一気に引いた。
皮膚が恐怖に粟立った。

女の思いもよらぬ言葉と、その浮かべた冷たい微笑に、男は心底 怖くなったのだ。
女を包んでいた腕をほどくと、男は一目散にそこを逃げた。

空が白んできている。
少しその寺から離れたところで、ようやく男は体を折って呼吸を整えたが、絡めた指の冷たさを思い出して、
また身をすくめるのだった。

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