月がぽっかりと空に浮かぶ深夜である。
 リンドルムが寝かされている部屋は人払いもしてあるので彼以外は誰一人いない。
 ひっそりと静まる広い客室に穏やかな寝息だけが規則的に響いている。
 このときばかりは、リンドルムの異常も他の誰とも変わらぬように見えた。

 クレアはベランダ降りると、簡単にガラス戸の錠を開ける。
 イザベラはベッドに駆け寄ると、相変わらず起きる気配のない婚約者の右頬にそっと触れた。

「リンディ、今、魔法を解くからね…」

 先刻クレアから渡された紙片を取り出し、月灯りでその文字を見取る。
 その途端にイザベラはすごい形相でクレアを振り返った。

「クレア…本当にこれ、呪文なんでしょうね…?」

 紅玉の目が据わっている。

「この洟垂れにはこれが効くのよぉ。試す前から疑うもんじゃないわ、失礼よぉ」
「まぁいいわ…」

 クレアに頼るしかないイザベラは気を取り直して大きく息を吸った。
 そして呪文を大声で叫ぶ。

『起きなさい、この甲斐性なしっ!!』

 イザベラの声に、ぴくん、とリンドルムの瞼が震えた。
 今度は驚いて彼女が振り向くと、クレアがしたり顔でうなずいている。

「やぁっぱり。あのねぇ、イザベラ。この坊やはきっと『このまま時が止まればいいのに』って自分で思っちまったんだよぉ。きっと何もかも幸せ過ぎたんじゃなぁい?」

 あまりにきょとんとしているイザベラに、クレアが説明をし始めた。が、イザベラはそれでも分からない。

「幸せ過ぎるとどうして眠ってしまうの?それに、どうして『甲斐性なし』が魔法を解く呪文になるの?」

「この坊やは一応王子じゃん?とすると婚約した時点で世継問題やら、外交発表やらと面倒事がひっきりなしにやってくる。それが立場上当然の責務って頭じゃ分かっててもやっぱり嫌なわけよぉ。だからそんな先のことは考えたくなくて、ただあんたとこうして、甘い時間を過ごせればそれでいい…って思ったんじゃないのぉ?だから今があまりに幸せで、このままずっとこうしていたい、幸せなまま時が止まればいいのに、って強く思ったところに、アタシの魔法が反応しちゃったのさぁ」

 そこまでクレアが説明すると、ようやくイザベラは合点がいったように深くうなずいて、続いてリンドルムの胸倉を掴んだ。

「リンドルムのばかばかばかばかっ!本当に甲斐性なしだわよ!私は情けないわ。未来が怖くて時間を止めるだなんて私だってやらないわ。だって私たち婚約したのよ?なのにどうして相手を置いて一人閉じこもるような真似ができるのよ!!そりゃ今はとっても幸せだわ、でも未来だって同じように幸せになるように私たちが努力するものではないの?どうして障害があるだけで逃げ腰になってるのよ!仮にもこれから所帯を持つ大人らしく腹を据えたらどうなの!?私だって貴方と共に働くわ。貴方だけに苦労をかけるつもりはないわ。それが夫婦ってものでしょう?さぁ分かったら子供みたいにいつまでも駄々をこねてないで、いい加減に目を覚ましなさい、リンドルムッ!!」

 がくがくと揺さぶりながらイザベラは叱りつけた。
 これで起きなかったら目を覚ますまで往復びんたをするつもりだった。
 そして、ちょうど右手を振りかぶった時、リンドルムの青い瞳が開かれた。

「…激励感謝するよ…。おはよう、私の可愛い奥さん」

 透き通る蒼色の碧眼が決まり悪そうに笑う。湖と同じ色の穏やかな瞳。
 イザベラは驚きと喜びでとっさに声が出ない。

「さて…いつまでその腕は振りかぶっているのだろう?私は君を抱きしめたいんだけれど、いいかな?」

 リンドルムは返事も待たずにイザベラを両腕で強く抱きしめた。
 そのままの態勢で、リンドルムは言葉を続ける。

「まだ言ってなかったけれど、私は<ノーヴァ>の第三王子なんだ。色々と苦労をかける事になるけれど、それでも私と結婚してくれるかい?」

 改めてリンドルムからの求婚が行われた。
 イザベラはにっこりと微笑んで答える。

「もちろんですわ、リンドルム。私なんて<レヴィスタ>国の一人娘よ。もっとご面倒をかけることになるけれど、二人で力を合わせて一つ一つこなしていきましょう。だって私たちは夫婦になるんですもの」

 うっとりとイザベラがリンドルムの胸に顔をうずめていると、背後から軽い咳払いが聞こえてきた。
 クレアである。

「ごっ、ごめんなさい。クレア」
「仕方ないねぇ。恩人ほっちらかしてベタベタするんだから」

 黒髪の少女は居心地が悪そうにモジモジしている。きっと背中がムズムズしているのだろう。

「貴方のおかげよ。本当に何とお礼を言えばいいのか、分からないほど感謝してるわ。ありがとう、クレア」

 イザベラは相変わらず腕をほどいてくれないリンドルムの耳に、クレア・ウィッチだと紹介して一部始終を説明した。

「なるほど。ご迷惑をおかけしてしまったようですね。すみませんでした。それとありがとうございます」

 クレアは感謝されることが嬉しいのか、顔を緩ませている。

「まーアタシにも原因が半分ほどあったしねぇ。それに坊やに少しでも『このままではいけない』って気持ちがなくちゃ魔法は解けなかったのさぁ。だから、この貸しは結婚式への招待状でチャラにしてあげようじゃん」

 その言葉に、リンドルムが嬉しそうに、にっこりと笑う。

「それは素敵だ。ぜひいらして下さい。私の両親にも貴方を紹介したい」
「しょ、紹介されるのは遠慮しとくよぉ。目立つのは好きじゃないのさぁ」

 あわてて両手を振りながら辞退するクレアが可愛くて、イザベラはリンドルムの腕から抜け出すとクレアをぎゅっと抱きしめた。

「ななななんだい、イザベラ?」
「クレア、貴方って本当に可愛いわ!」

 真っ赤になったクレアはそのまま黒猫に変身するとベランダの手すりに逃げた。
 漆黒の毛並みが美しい、夜の闇のような黒猫である。
 そして手すりに座る格好で少女の姿に戻ると、にんまりと笑った。

「それじゃ、お邪魔虫は退散するよぉ。イザベラ、幸せにおなり。坊や、しっかりおやりよぉ。招待状を楽しみにしてるからねぇ」

 箒に飛び乗ってウインクを一つ。
 イザベラは慌ててベランダに駆け寄った。

「ねぇ、クレア。またお邪魔しちゃダメかしら?」
「…アタシは木苺のケーキが大好きだよ」
「ありがとう!」

 クレアは嬉しそうに礼を言って、クレアが夜空に消えるまで見送った。

「イザベラ、まだ外は寒いだろう。こっちへおいで」

 リンドルムが両腕を伸ばして呼び込むと、イザベラはその胸にすとん、と体をおさめた。リンドルムの体温と鼓動が頬に伝わる。
 なんだか安心して眠くなってきた。

「疲れただろう?色々とすまなかったね。もう私は大丈夫だから、君はおやすみ」

 そう言うやいなや、リンドルムはイザベラを抱きかかえてベッドに横たえる。
 毛布を肩口までかけてやった。

「でも…怖くて眠れないわ。もしかしてこれは夢で、貴方はまだ眠ってるんじゃないかしら、って…。だから眠りたくなんかないわ…」

 一生懸命目をこすって起きようとしてるイザベラが愛しくて、リンドルムは彼女の額にキスをする。

「では、私は君の横で君が眠りにつくまで夜伽をしよう。そして朝一番に君にキスをしておはようと言おう。そうすればこれが現実だって分かるだろう?」
「ええ、そうね…そう、だわね…」

 リンドルムはすでに半分眠りかけているイザベラに苦笑して、自分も同じベッドに潜り込んだ。

「そうだな…私が君のことを知った時の話をしようか。あれはちょうど兄さんの歴史の本をちょいと借りてたときだったんだ…」

 そうしてイザベラが深く眠りにつくまでリンドルムは語り続けた。
 彼女の金糸のような髪を指に絡ませて、青年は苦笑する。

「起こしてくれてありがとう。すごい起こし方だったけど…でもそんな君だから共に歩んでいけると思うよ」

 彼女なら、止まりそうになる歩みを後ろから一喝して押してくれるだろう。
 気の強い<レヴィスタ>王族の一人娘。
 そして自分の生涯の伴侶。

「まさか甲斐性なしと言われるとは思わなかったけどね」

 返す言葉もないリンドルムである。

「…明日の朝もこれから先の毎朝も、私のキスで目覚めてくれるね。もう君に甲斐性ないとは言わせないから」

 ――――実は結構傷ついていたらしい。
 リンドルムは金の髪に口付けると、朝が来るまでそのままイザベラを見つめつづけた。
 約束を果たすために。

 

+++++++++

 

 <レヴィスタ>と<ノーヴァ>の国を挙げての結婚式は盛大なものであった。街中が二人を祝福し、二国の更なる発展を祈った。
 式には約束通りクレア・ウィッチが招待され、彼女は相変わらず少女の姿で登場すると二人を祝福した。
 木苺のケーキに目を輝かせながら彼女が二人に贈ったのは、こんな魔法である。

『二人はいつまでも、いつまでも幸せに暮らすわよぉ』

 

 この後二人がどうなったのかは、語るまでもないだろう。
 おとぎ話の最後の台詞は昔から決まっているのだ。

『めでたし、めでたし』と。

END

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