いよいよ義経の最期が来たようだった。 (絶対に触れさせない…) 弁慶たちを取り囲んだ兵たちは、たった十騎であるのに余裕の態度を取る彼らが解せなかった。 「やい、こちらは三万の兵だぞ。たかが十騎で何ができるとうんだ」 どこからか叫ばれた声に、弁慶は意地悪く鼻で笑った。 「三万も三万によります。十騎とて、十騎によりけりです。そんなこともご存知ないんですか?」 「減らず口を…っ!!」 馬鹿にされた男が逆上して斬りかかると、弁慶はそれより速く、長刀の刃の部分を男の喉元に突き刺した。 「良く聞いておかれなさい、武人方。そして良く御覧なさい。私が武蔵坊弁慶。九朗判官殿の一人当千の家来です」 それだけ言うと、弁慶は大声を上げて敵の中へ駆け入っていった。それに伊勢や片岡が続く。 (殿……) とうとう十騎のうち一人になった弁慶は、喉ぶえを切り裂かれながらも、驚くべきことに、まだはっきりと意識があった。 (まだ死ぬわけにはいかないんですよ…) あの方が自害をするまでは、まだ死ねない。 「殿…」 少しずつ重くなっていく身体を引きずりながら、弁慶は義経の前へ行き、片膝をついた。 「弁慶か…みんなは?」 読経を途中で止めて、彼は血だらけの弁慶を見つめた。 「片岡殿も伊勢殿も、皆思う存分戦いましたが、傷を負い、自分で腹を切りました。もう、私しか残っておりません」 「そうか……」 手に持った経に視線を落とし、そのままに弁慶に最後の願いを言った。 「この経が読み終わるまでは、誰も入れさせないでくれ。終わったら俺はすぐに腹を切る。弁慶、頼む……」 「頑張ってみますが…、殿、殿が先に逝かれましたら死出の山で待っていて下さいね。 頭や肩から流血していても、弁慶はいつもの人なつこい笑みだけは変わらなかった。 (私は、殿のお傍で死ぬことも、腹を切って死ぬこともできないのですね…) それでも、一生をともにすることができた。 「私は、殿のために死ねることを嬉しく思います」 「弁慶…」 「はい」 義経を見つめる弁慶の瞳は、深い敬愛と優しさをたたえていた。 「来世もお前と逢いたいな…」 「逢えますよ」 穏やかな声に、どれだけ義経は救われただろう。 「………そうだな」 それだけ言って、義経は経を持ち直し、読経を再開した。 (俺は兄上が大好きだった……) 弁慶が静かに立ち上がるのを、視界の端でとらえながら義経は思う。 「…逢えますよ」 弁慶はもう一度呟くと、座敷から出た。 (兄上を好きなだけでいいと思っていた) 外では、弁慶が出てきたことで一瞬どよめきが上がった。 「ここから先は一歩も通しませんよ」 低くて、よく通る声。 「矢を射ろっ、ひるむな!」 敵の将らしい、しゃがれた声がした。義経は聞きたくなくて、読経の声を大きくする。 (だけどそれじゃ駄目だったんだ…) 矢の射る音がして、直後、次々と刺さる音がする。 「誰にも触れさせません…」 呟いた弁慶の声を、いったい誰が聞いたのか。 「五条橋で殿と出会ったときから……」 弁慶には、さっきから背中の壁越しに、主君の声が聞こえていた。 射られた矢が弁慶に突き刺さっては折れ、刺さっては折れて、まるで蓑のようであった。 (弁慶…お前がいてくれたから……) 「おいっ…何でこいつは倒れないんだ? …しかも…、笑ってるぞ」 義経は、経を読み逢えた。 「すぐれた武士は立ったまま往生すると言います。触れてみたらどうでしょう?」 (逝ったのか、弁慶……) 見えなくても、感じられる。死んでもなお自分を守ってくれている彼を。 「静…」 夫とともに死ぬ運命になった彼女は、気丈にも彼に微笑みかけた。 「良い家臣を、お持ちになりましたね」 その言葉に義経は胸が熱くなる。 「そうだな。……逝くか」 「…はい」 (少し疲れた…弁慶、死出の旅をともにしよう。また世話になるから…) (兄上、源家をお願いします…) 「疲れた…なぁ……」 閉じられてゆく瞳。暗黒に身が沈んでゆく。 一一八九年、源九朗義経は、平泉で命を落とした。享年31歳。 終 |
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