いよいよ義経の最期が来たようだった。
三万騎の兵に囲まれ、弁慶を含む十騎は刀を抜いた。
義経は今、最後の経を読んでいる。
この経が終わるまでは、絶対に敵兵を近づけてはならない。

(絶対に触れさせない…)

弁慶たちを取り囲んだ兵たちは、たった十騎であるのに余裕の態度を取る彼らが解せなかった。
弁慶など、扇を持って敵の目前で人差し舞ったのである。
それはとても優美で、見事なものだった。

「やい、こちらは三万の兵だぞ。たかが十騎で何ができるとうんだ」

どこからか叫ばれた声に、弁慶は意地悪く鼻で笑った。

「三万も三万によります。十騎とて、十騎によりけりです。そんなこともご存知ないんですか?」

「減らず口を…っ!!

馬鹿にされた男が逆上して斬りかかると、弁慶はそれより速く、長刀の刃の部分を男の喉元に突き刺した。
驚くほど正確である。
武具で覆っていない喉はあっけなく刃の侵入を許し、頭と身体を離してしまった。
真っ赤な血が飛び散り、他の者たちが思わず一歩退いた。

「良く聞いておかれなさい、武人方。そして良く御覧なさい。私が武蔵坊弁慶。九朗判官殿の一人当千の家来です」

それだけ言うと、弁慶は大声を上げて敵の中へ駆け入っていった。それに伊勢や片岡が続く。
十人の勇士は、すさまじく奮闘した。
片岡は3人を討ち取り、8人に怪我を負わせたが自分も重傷を負ったため首を取られる前に腹を切った。
伊勢も4人を討ち取り、7人に重傷を負わせたが、左の膝に深く矢が突き刺さり、やはり自ら腹を切った。

(殿……)

とうとう十騎のうち一人になった弁慶は、喉ぶえを切り裂かれながらも、驚くべきことに、まだはっきりと意識があった。
義経のいる座敷に行くまでに彼は15人を討ち、4人に重傷を負わせている。

(まだ死ぬわけにはいかないんですよ…)

あの方が自害をするまでは、まだ死ねない。

「殿…」

少しずつ重くなっていく身体を引きずりながら、弁慶は義経の前へ行き、片膝をついた。

「弁慶か…みんなは?」

読経を途中で止めて、彼は血だらけの弁慶を見つめた。
こんな姿は、戦に出ていた義経には珍しいものではなかった。
こうやって、味方が次々と死んでゆくのも。

「片岡殿も伊勢殿も、皆思う存分戦いましたが、傷を負い、自分で腹を切りました。もう、私しか残っておりません」

「そうか……」

手に持った経に視線を落とし、そのままに弁慶に最後の願いを言った。

「この経が読み終わるまでは、誰も入れさせないでくれ。終わったら俺はすぐに腹を切る。弁慶、頼む……」

「頑張ってみますが…、殿、殿が先に逝かれましたら死出の山で待っていて下さいね。
私が先に死にましたら三途の川でお待ちしておりますから」

頭や肩から流血していても、弁慶はいつもの人なつこい笑みだけは変わらなかった。

(私は、殿のお傍で死ぬことも、腹を切って死ぬこともできないのですね…)

それでも、一生をともにすることができた。

「私は、殿のために死ねることを嬉しく思います」

「弁慶…」

「はい」

義経を見つめる弁慶の瞳は、深い敬愛と優しさをたたえていた。
義経はそれだけで、弁慶の強い想いを感じることができる。

「来世もお前と逢いたいな…」

「逢えますよ」

穏やかな声に、どれだけ義経は救われただろう。

「………そうだな」

それだけ言って、義経は経を持ち直し、読経を再開した。

(俺は兄上が大好きだった……)

弁慶が静かに立ち上がるのを、視界の端でとらえながら義経は思う。

「…逢えますよ」

弁慶はもう一度呟くと、座敷から出た。

(兄上を好きなだけでいいと思っていた)

外では、弁慶が出てきたことで一瞬どよめきが上がった。

「ここから先は一歩も通しませんよ」

低くて、よく通る声。
義経の傍にいつもいた法師のものだ。聞き間違えることなどない、大切な声だ。

「矢を射ろっ、ひるむな!」

敵の将らしい、しゃがれた声がした。義経は聞きたくなくて、読経の声を大きくする。

(だけどそれじゃ駄目だったんだ…)

矢の射る音がして、直後、次々と刺さる音がする。
弁慶は悲鳴もあげず、よろめきもしなかった。

「誰にも触れさせません…」

呟いた弁慶の声を、いったい誰が聞いたのか。

「五条橋で殿と出会ったときから……」

弁慶には、さっきから背中の壁越しに、主君の声が聞こえていた。
けれど、それも次第に薄れていく意識のせいでよく聞こえなくなっていく。

射られた矢が弁慶に突き刺さっては折れ、刺さっては折れて、まるで蓑のようであった。
青銀の鎧は流れ出る血でどす黒く染まっている。

(弁慶…お前がいてくれたから……)

「おいっ…何でこいつは倒れないんだ? …しかも…、笑ってるぞ」

義経は、経を読み逢えた。
静かになった座敷には、外の声がすべて筒抜けで聞こえる。弁慶はまだ立っているようだった。

「すぐれた武士は立ったまま往生すると言います。触れてみたらどうでしょう?」

(逝ったのか、弁慶……)

見えなくても、感じられる。死んでもなお自分を守ってくれている彼を。

「静…」

夫とともに死ぬ運命になった彼女は、気丈にも彼に微笑みかけた。

「良い家臣を、お持ちになりましたね」

その言葉に義経は胸が熱くなる。

「そうだな。……逝くか」

「…はい」

(少し疲れた…弁慶、死出の旅をともにしよう。また世話になるから…)

(兄上、源家をお願いします…)

「疲れた…なぁ……」

閉じられてゆく瞳。暗黒に身が沈んでゆく。
微かに焦げる匂い。
藤原氏の邸宅が焼けてゆくのだ。
あらゆる想いを炎に乗せて、昇華してゆく―――――――

一一八九年、源九朗義経は、平泉で命を落とした。享年31歳。
今、彼は悲劇の人物として語り継がれている。しかし、その彼の思いを知る人は、もういない――――――

 

 

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