夜明け近く、松永から少し離れた如意の城の近くに、人目から逃れるように歩いている一行がいた。

一人の山伏が飛びぬけて背丈が高く、その他6人ほどがその山伏の後をついていく。
彼の名は讃岐坊といい、出羽国、羽黒山の山伏だという。実の名を、弁慶と言った。
その後ろにぴったりとくっついて行くのは、それは肌の白くて美しい稚児であった。
金王殿という羽黒山では有名な稚児である。しかし、やはりそれは人の名であり、本名は源九朗義経という。

その他一行には、義経の妻、静御前が扮した稚児があり、
伊勢三郎、片岡八郎、常陸坊といった義経と生死をともにすることを決めた武士が山伏に化けていた。
彼らはここに来るまでに幾度となく窮地に追い立てられた。
それでもこうして大事なくやってこれたのは、ひとえに弁慶のおかげである。
みんなが心の中で神にすがり、祈っているとき、彼は一人で押し問答をし、義経たちの命を救ってきた。

(こんなところで殿を自害させてはいけない)

たとえ死ぬことが決定されていても、どこでどのように死ぬかは武士にとって大事なことである。
それを弁慶は良く心得ていた。

日がようやく昇り、周りが明るくなってきたころ、砂と渡し場が見えた。
ここから船に乗り、六動時を超えて、那古の浦へ行くのだ。
だが彼らが船に乗ろうとすると、平権守がこんなことを言ってきた。

「鎌倉殿から前々からご命令を受けていまして、何でも九朗判官殿が落ちのびてやってきているとか。
山伏の5人や3人なら問題もありませんが、7人ともなると怪しく思われます。守護にこのことを報告してからお渡ししましょう」

伊勢はこれを聞くと、憎たらしくて斬ってしまいたくなった。
が、そこへ弁慶が一歩前へ出て、渡し守と交渉をし始める。

「いったいこの中の誰が九朗判官殿だと貴方はおっしゃるんですか?
それだと思うのでしたら、どうぞ指を指して、これが九朗判官殿だと言って頂きたいですね」

毒をたっぷりと含んだ物言いで弁慶が言うと、渡し守はたじろぎながらも義経を指差し、

「この稚児が怪しく思われます」

とだけ言った。すると、弁慶はいらだたしげに舌打ちし

「またですか…」

と呟き、見たこともないほど冷たい顔で義経に近づいて、
ひょいと彼を肩に担いで浜へ駆け上がると、砂の上へ勢い良く投げ出した。
そして誰もが、義経までも何が起こったのか分からないうちに、弁慶は腰の扇を抜いて
情け容赦なく、思い切り稚児を殴りつけた。
ぴしゃり、とものすごい音がした。

(弁慶……?)

痛みより、驚きのほうが大きくて、義経は目の前に立つ山伏を見上げた。
そこには、知らない顔があった。
突き刺すような冷ややかな眼差しで、怒りと憎しみを込めて、自分を見つめる両の瞳。

(だれ…だ? こんな弁慶、俺は知らない…)

続けざまに、弁慶は義経を殴りつけた。留め金が肌をひっかき、血が出ても彼は手を休めなかった。

「お前のために、至るところで人々に疑われるんですよ…」

弁慶の声は荒れてはいなかったが、その分凄みがあった。
節ばった指で義経の細いあごを捉え、息のかかるほど近くに顔を寄せてにらんでいる。
山伏の瞳に映るのは、色を失った顔と怯える瞳だった。
山伏は稚児のあごを支えたまま、右手の扇でもう一度殴った。
あまりの音に、見守っていた静御前は悲鳴を上げて泣きだしそうになってしまったほどである。

「すべてお前のために…わかりますか大和坊? お前一人のために私たち皆が迷惑しています…」

(やめてくれ、弁慶…)

これが弁慶の芝居であることぐらい、義経にも分かっていた。
普段の彼なら、天地が逆になろうとも、そんなことはしない。
けれど、自分を見つめる瞳は憎しみに満ちていて、自分に言い聞かせる言葉は呪詛そのものだ。

(これがお前の本音なのだろうか……)

誰よりも信頼していたからこそ、痛みも大きかった。
弁慶の台詞は義経にとっても反論できぬものであったから。

「お前のせいですよ」

目に見えぬ言葉の刀で心を思い切り傷つけられ、義経は逃げ出したくなった。
もう、これ以上は弁慶の他人のような表情に耐えられない。

(すまない…すまない弁慶…っ!!)

「やめてください。もう、もう結構ですよ…!!」

そこへ渡し守がようやく止めに入った。弁慶の右手がふいに止まる。

「『判官でない』と申されれば、こちらもそうかと思うのに、あれほど情け容赦なく打つとは、こっちのほうが辛い。
その稚児が気の毒だ。さ、どうぞこれにお乗りください」

こうして、一行は六動寺を超え、那古の浦の林に着くことが出来た。
もう、渡し守もいない。

「殿…殿……」

忘れようとしても忘れられなくて、弁慶はひざまずいて義経の裾に縋りついて泣いた。

「いつまで…いつまで殿を庇うために主君を殴らなければならないのでしょう…。
私は……二度とこんなことはしたくありません…」

顔を伏せて声を震わせた。義経が彼の肩にそっと手をかける。

「お前が、俺のために心を痛めてやってくれていることは分かってる。
ただ、ここまで運に見放された俺のせいで、お前たちをつらいめにあわせているのがくやしいんだ」

(俺のせいなんだ…)

身勝手だと言うことは承知している。申し訳ないと思っている。

(それでも譲れないんだ…)

一生をかけて愛した人のためだから。それが破滅への道だろうと、歩まずにはいられない。
人を巻き込んでも、譲れない。

(ごめん、みんな……)

義経も黙り込んでしまい、静御前や伊勢も涙ぐんでしまうのだった。

義経の白い頬にはしる傷が、血でにじむ―――――

 

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