「判官殿っ、大変ですっ!!」

板張りの床に座していると、伊勢が息せき切って走ってきた。

「どうしました? 伊勢殿?」

相変わらずの冷静さで弁慶が訊く。

「騒々しいな」

からかう口調で、呼ばれた義経が伊勢を見やる。

「…っ院から…判官殿の追討令がでました…っ!」

「なっ…っ!?」

「―――――それは真ですか、伊勢殿?」

「はい。たった今、鎌倉殿が呼ばれて…」

絶句した義経に変わって、弁慶が確かめた。

(いつか来るとは思っていましたが……)

帝の座を二条天皇に譲り、院にこもって権力を影からつかう、後白河院。
もちろん今の武士がはばかる時代を快く思っているはずもなく、何かと理由をつけて兵力を殺ぎ落とそうとしている。
先日も、京を荒らしたといって木曾義仲の追討令を頼朝に下した。
そして今度は義経か。

(頼朝殿は断れないでしょうね…)

断れば、頼朝を討つ口実を相手に与えてしまう。

(殿は、あまりにも目立ってしまわれた)

ふと振り向くと、義経の顔は少し青ざめていた。

「後白河め…」

「殿……」

弁慶が静かな声で言った。

「早々にここを去りましょう。私はどこまでも殿について、お守りいたしますから」

「……そうだな…いや、ちょっと待ってくれ」

そう言うと、義経はゆっくりと立ち上がり、ふすまに手をかけた。

「どちらへ?」

伊勢と弁慶の声が重なった。
思わず、義経の顔が柔らかくなる。
さっきより、ずっと落ち着いた表情になっていた。

「兄上のところへ…挨拶をしてくる」

思わぬ返事に伊勢が大声を出した。
命が狙われているというのに、わざわざ顔を出すなんて。

「とっ、とんでもないですよぉ判官殿っ! それより早くお支度を…」

「いや、伊勢殿、しばらく時間を下さいませんか?もう少しだけ…せめて大切な人に挨拶をできるように……」

伊勢の抗議を遮って、弁慶は丁寧に頭を下げた。

「お願いします」

伊勢ばかりか、今度は義経も面食らったようだった。
伊勢はただひたすら恐縮して「やめて、下さい弁慶殿」と、わたわたしている。

「殿、いってらっしゃい。準備はすべて私がやっておきますからね」

すべて承知したように、弁慶がにっこりと微笑んだ。その表情に、義経の胸がきゅんとなる。

「ありがとう、弁慶」

心から礼を言うと、義経はそのまま部屋へと進んでいった。

「どっ、どどどどーするんですか、弁慶殿!? 判官殿がその場で斬りつけられたら…っ!!」

まんまと義経を逃がしてしまった伊勢が顔面蒼白になってくらいついてきた。
弁慶は、ふと考えるふりをして、そのあと伊勢を見つめた。

「それはないと思いますが…そうですね、その時は私も一緒に死ぬだけですよ」

「そっ、そんなぁ……」

それだけ言って、伊勢はうつむいてしまうのだった。

************

「兄上…」

たった一人で座している頼朝に静かな声が降ってきた。
それは本来、その首を院に渡さねばならない人物のはずだ。
しかし。

「お入り、義経」

にっこりと微笑んで、彼は腹違いの弟を部屋に入れた。

「院から令が下ったそうですね」

「そうだ」

何もない部屋でたった2人、向き合って静かに流れる時を感じている。
いつもと変わらない沈黙も、今日は肌に刺さるように痛い。

「俺は奥州へ下ろうと思います」

「奥州へ? 藤原氏か……」

今年で33になる源氏の総領は、輪郭のほっそりとした、穏やかな顔立ちであった。
造りは圧倒的に義経のほうが良かったが、見目は悪くはなかったし、何よりカリスマ性があった。
武士を統べあげて全国を支配する、頂点に立つものの器。それが義経の憧れる点でもあった。

「今ここで、兄上に殺されても、俺は構いません。でも、何も知らない輩に、兄上を『弟殺し』などと呼ばせたくありません。
……だから、追いかけてきてください」

まっすぐに、瞳を見つめる。
義経には、これが最後だと分かっていた。
もう、二度と会えない。

(離れたくないのに…)

自分はもう、傍にいられない。

(いやだ。本当は今ここで、兄上の傍で死にたい…。兄上に殺されたいのに……!)

逃げ落ちるのなど嫌だった。人目を忍んで隠れるように生きねばならないなど耐えられなかった。

(一生傍にいようと誓ったのに…!!

でも、すべては大切な人のために。

(俺も弁慶も同じだ)

大切な大切な人のために自分の人生を狂わせる。

(兄上…)

「追いかけて、来てください」

もう一度、義経が繰り返した。強い強い眼差し。堅く決心した証拠だ。
黙っていた頼朝が、何か思い出したように口を開いた。

「あのでかい山伏はどうした?」

「弁慶ですか? あいつは俺についてきてくれるそうです」

「しかしあいつは目立つだろう。でかいし、怖いし、黒いし…」

兄のかわいらしい物言いに、思わず義経は吹き出した。
これが、源氏の総領の一面である。

「でも弁慶は俺なんかよりたくさんの事を知ってます。
人に頼るのはしゃくですけど、実際あいつがいなくちゃ俺はすぐ死ぬでしょう」

頼朝は、その言葉を聞いて目を細めた。

「頼りにしてるんだな」

「はい」

するりと本音が唇からこぼれ落ちた。

義経は、弁慶が一番大切だとは思っていない。自分の一番はこの兄だ。
なのに、頼っている。
それは自分でも調子が良すぎると思っているから、義経は、なるべく弁慶と距離を置こうとする。

――――――いつも気がつけば、傍にいるけれど。

「義経…」

頼朝が、右手で義経の頭をくしゃくしゃと撫でた。
ただそれだけで、義経は息が止まりそうになる。

「苦労をかけて、すまんな」

やさしい言葉をかけられて、義経は目頭が熱くなった。

「いいえ…いいえ…、兄上……」

泣き顔を見られたくなくて、義経はうつむいた。
水滴が頬をつたい、ひざに2粒落ちる。

(さようなら、兄上)

「俺は、…義経は、兄上が大好きです…」

「…ありがとう……」

義経は、ゆっくり頭を上げ、頼朝に微笑んだ。
それで、せいいっぱいだった。これ以上、何か言ったら、みっともなく泣き出しそうだった。
だから、彼は一礼だけすると、その部屋をあとにした。
まだ彼には、やるべきことがあったのだ。

「殿…」

「…弁慶」

義経の目の前で、いつもどおり弁慶は片ひざをついてこうべを垂れた。

「準備は完了しました。もう、よろしいのですか?」

彼が下を向いて顔を見ようとしないのは、義経が泣いていると思ったための配慮だ。

「弁慶…俺は人斬り以外、何も知らないんだ。本当に…だから、頼りにしてるよ」

弁慶は立ち上がると、優しく微笑んだ。

「任せてください。すべて…私が何とかしますから」

その笑顔を見た途端、義経は我慢できなくなって弁慶の左腕にしがみついた。
そうして、直立不動に固まった彼をよそに、義経は肩を震わせて、泣いたのである。

 

 

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