「弁慶は本当に強いなあ」

翌日、五条橋を発った2人は、馬を並べて進んでいた。
弁慶は義経の後ろを歩くと言ってきかなかったのだが義経がなんとか言って並べさせたのだ。

「俺が指差したとき、目をつぶらなかっただろ、お前。あんなこと、初めてだったんだ」

「私も初めてでしたよ。勝負で目を狙われるなんて」

弁慶が軽く笑った。
昼間見る彼は、義経と反対で色が黒かったが、しかしなかなかの顔立ちであった。
人なつこい目をしているのだが、身の丈がとにかくでかく、体つきもいかめしいので一見すると無骨そうに見える。
そんな弁慶を横目で見ながら、義経はぶすくれた顔で、

「…卑怯だと思ったか?」

と訊いた。弁慶は意外そうな顔で義経を見やる。

「卑怯? とんでもない。あれは戦術ですよ。相手の裏をかいてこその戦術です。
実際に目潰しをくらわせたわけでもない。あれは私の完敗です」

「そうか。…いや、お前があれを不本意と思っているかもしれないと思ったから……そっか。なら、いいんだ」

心底ほっとした表情で繰り返す義経を見て、また弁慶が微笑んだ。

「しかし、まさか殿が鞍馬の牛若様とは思いませんでしたね。牛若様のお噂なら、私でも聞いておりましたのに」

拗ねたように言う弁慶を満足げに見やりながら、義経は言い返す。

「いつまでも稚児のままでは都合が悪いだろ。それに早く源の姓を名乗りたかったんだ」

そう言って、期待を胸に膨らませていた少年のような青年は、無事に奥州の藤原秀衡と会い、
しばらくもしないうちに兄、頼朝軍と合流する。
これが2人の出会いだった。

***************

一の谷、屋島と義経は疾風迅雷の騎馬で、見事な奇襲攻撃を成功させた。
戦場での彼の姿は、戦の女神さながらで、敵味方問わず誰もがその美と力に息をのんだ。
五条橋からの家来、武蔵坊弁慶一人を除いては。

彼は昔、今の主君と出会って間のなくのころに、血の契りを交わそうとした。
自分は生涯主君につくし、主君のために己の命も辞さないという誓いである。
弁慶は、自分の真剣な思いを知ってもらいたくて、そう義経に告げた。
すると彼は、あいまいに笑って、こう言ったのだ。

「弁慶は法師のくせに武士のようなことを言うんだな。俺も弁慶は好きだし、だいじな家臣だと思ってる。
でもこうやって、誓う必要はないよ。
むしろ、いつでも俺から離れられる状態でいて、それでも傍にいてくれてるほうがずっと信用できる」

弁慶は、それを聞いて、すぐさま義経の足元に跪いた。
『表面上の誓いはいらない。態度で示せ』と言われたも同然だったからである。

「申し訳ありませんでした。ですが…どうしても、この弁慶の決心を聞いていただきたかったのです。
私は…弁慶は殿のものです。殿だけの……」

「わかってる、つもりだよ」

花が咲いたような笑顔。

(離れたくない。手に入れたい)

けれど簡単には手に入らないから自分は惚れたのだ。手を伸ばしても触れられないから求めるのだ。

(狂気じみている……)

けれどそれすらも、あの方を思えば心地よい。

「お前は俺のものだ。だが間違えるな。俺はお前のものじゃない」

突き放すような口調。時々自分に見せる、その氷のような冷たさも、弁慶の手に入らない義経のものだ。

「俺の命は兄上のものだ。俺が唯一ひざまずく主君は頼朝殿なんだ」

「…肝に、命じておきます」

(私たちは、とてもよく似ていますね……)

あれからもう、何年経ったのか。傍にいることを許されてから、今でもまだ触れることもできない。

いつだったか、こんな話もした。

「弁慶の母上はどんな人だ?」

少し、怯えた眼をしていた。彼には珍しいけれど意外ではなかった。彼はよく表情を変えたから。
ただ心外なだけだ。

「さあ。私は生まれてすぐに母親を殺しました。十八ヶ月腹の中にいたそうです。
私を産み落とした母は、すぐに死にました」

「すごいな…弁慶の母上は」

義経は素直に驚いた。赤子は十月十日で生まれるものと聞いている。

「それでも弁慶を産みたかったんだな」

「! ……そうでしょうか…まあ、殺されなかったのだから、そうかもしれませんね。
けれどいったいどうしたのです?」

「伊勢が、な。俺は母上にそっくりだって」

「常盤御前に?」

常盤御前とは、今は平清盛の側妻という屈辱にさらされている、亡き義朝の妻である。
その美しさは、李夫人楊貴妃も、これほどではなかろうと見たものは口々に言うほどである。
まさしく、義経の美しさは、母親譲りであった。
さて、義朝が敗れ、幼い義経とともに彼女は清盛の前に連れてこられた。
清盛は、後々平家の敵となるだろう源氏の子等はみな殺してしまおうと思っていたが、常盤のあまりの美しさに考えを変えた。

―――――自分になびくのなら、子等の命を助けてやろう。

それが条件だった。貞女は両夫に見えず、とは言うが彼女は妻よりも、母としての道を選んだ。
そして今、義経はここにあり、常盤は清盛の屋敷にいる。

「平家を滅ぼすことは、母上を殺すことになるだろう。そう思うと、やりきれなくなる」

深い深い吐息。ひざを抱え、うずくまるようにして彼は言った。

「常盤御前もわかっていらっしゃいますよ。むしろここでためらう殿をご覧になったらお叱りになるかもしれません」

「源家を再興せよ、と……?」

それは2人が出会った日に、義経が言った言葉だ。
生きることにさえ無関心だった弁慶に、強い興味を持たせた。

義経は弁慶の隣に座り、その長い髪をうねらせて、こちらを見つめている。
どこまでも頼りなく、それでいて切ない瞳。

(そんな顔を見せないで下さい…)

義経に差し出したこの胸が苦しい。弁慶は自分の胸元をわしづかみした。
誰よりも大切な義経。彼には幸せになって欲しいと思うのに。

(なぜ…?)

それは、義経が好きだから。

「常盤御前が亡くなっても、殿は残ります…頼朝殿も」

乾いた唇からもれる言葉は掠れていた。

「弁慶…?」

不安を帯びたまなざし。胸の痛みが増して、息ができない。

(この人を、守らなければ)

どれほど腕が立っても、戦場で鬼と呼ばれるほど人を斬っていても、
斬り捨てられるほどの強い精神の持ち主ではないのだ。
刀を手にしているとき、義経は常に胸を張り、凛々しく雄雄しく弱みなど決して出さない。
涼しげな顔で、眉一つ動かさずに一振りで2、3人を斬りつける。
それでも鎧の中は、いつでも傷にまみれていたのだ。心の中で、泣いて許しを請いながら。

「殿が生きている限り、源氏の血は絶えません」

弁慶が、人なつこい眼を優しく細めて、けれどキッパリと言い切った。
義経の表情が、みるみるうちに明るくなる。

「そう…だな。源氏のため、ひいては兄上のために。
そうだ……俺が戦うのは、兄上のためだけだ。
他の何にも代えられない。―――――ありがとう、弁慶。お前っていい奴だな」

もう一度、自分を見つめた瞳は強い光を宿していた。
胸の震えがまた波になって弁慶に襲ってくる。

(限りなくもろい砦だ…。たった一つの思いだけで戦っている)

もし今、頼朝殿に切り捨てられたら、彼はいったいどうなってしまうのか……。

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