−3−

鼓動が聞こえる。すぐ耳元で吐息も。
ルラはそっと目を開けた。

「気づいた?」

安堵のため息と共にラギーは囁いた。
彼の瞳が間近に見える。
彼女はラギーに抱き上げられてるためであった。

「ラ…」

ラギー、と言おうとしてルラは激しく咳き込んだ。
空気が重い。
どろっとした粘着性のある空気だった。息苦しい。

「動かないで。どうやら…来ちゃいけない所に迷い込んだみたいだよ」

どこか澱んだ世界にいることは確かだ。
彼女の頭上のリングが消えそうなほど微弱な影になりかけている。
ラギーの背中を冷たいものが流れ落ちた。

暗黒の地。
さまよえる者の集いし聖地。
亡者の巣。

天の者はいるだけで生気を吸われる魔性の地だ。
ここの住人は非常に攻撃的で残虐だと聞く。
彼らにとって、危険極まりない。

「大丈夫だよ。大丈夫…」

自分に言い聞かせるように彼は繰り返した。

「逃げましょう、ラギー。そのうち匂いを嗅ぎつけて妖者たちが来るわ」

なんとか声を振り絞って、か細くルラが言う。
ラギーと違い、彼女の命の灯火が消えるのも時間の問題なのだ。

「どこかに歪みがあるはずだわ」

でなければ入ってこられなかったはずだ。
全ての希望が絶たれたわけではない。
一言も悪態をつかずに、彼女は事態解決の提案をした。

「わかったよ」

彼女を抱きかかえたまま、ラギーは歩き出した。

「ねぇっ、平気だから降ろして。私も歩くわ」
「ダメだよ」
「本当に大丈夫よ」
「ダメだよ。ルラのほうが生気が吸われやすいんだから。それに俺、男だしね」

軽く笑った彼を見て、ルラは真っ赤になってうつむいた。
鼓動がうるさいほど大きく鳴る。

「ごめん…」

しばらくの後、彼は沈黙を破った。出口は未だ見つかっていない。

「俺が誘ったから…俺が誘わなければ、こんなことにならなかったのにね…」

弱い吐息の彼女をきつく抱きしめる。ルラは顔色も悪くなってきていた。
血の気のない蒼白へと…。

「…え? なに? もう一度言って」
「…カ…エル…さ……ラ…ギ…」

ラギーは後頭部を思い切り殴られたような感覚を味わった。
ぎゅっと彼女を強く抱きしめる。
細く折れてしまいそうな四肢。

「ミカエルッッ!!!」

喉が痛むくらい彼はその名を叫んだ。

「ミカエル!! 大天使なら出て来い…っ!!!」

(頼む―――…)
せめて彼女に自分の生気を分けられたら。
何も出来ない自分をもどかしく、恨めしく思った。
もはや神頼みしか彼には出来ないのだ。

その刹那。

一閃が暗黒を切り裂いた。
よどんだ空から光の筋がこぼれる。

≪救世主≫

そんな言葉がラギーの頭の中をよぎる。
まばゆい光に目を細め、まばたきをした瞬間、光の帯の中にラギーは人影を見た。

「出るぞ」

軽いため息をしてラギーを一瞥すると、有無を言わせぬ口調で大天使は言った。

「あ、ああ…」

どのように、とは訊かなかった。
万能の神に、それは愚問というものだ。
思ったとおり、気づけば周囲は一変して、いつもの平穏な天上界に彼らは立っていた。

「ルラはこちらで預かる。全快するには少し時間が必要だろうからな」
「わかった…」

無感情なミカエルの言葉にラギーは呆然と答えた。
彼にとって、脱出は造作もないことなのだ。
たった一瞬で出来てしまうのだ。
その力量の違いを改めて思い知らされた。

「ラギー」

ルラをその腕に抱えながらミカエルは言った。

「明日には必ず誰かが騒ぎ出す。覚悟はしておけ」

うなずく彼を見ると、大天使はきびすを返した。

「あ…っ――――感謝してる…。ルラを助けてくれて…」

かすれそうな声で、ラギーは彼の背中に言った。

「坊やになつかれても嬉しくもないが。今日は休むがいい」

彼の背中が答えたかと思うと、もうそこには誰もいなかった。
下界には色とりどりのネオンサイン。
その鮮やかさが更に彼の孤独感を強め、ラギーは声を殺して泣いた。

 

 

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