【【回帰断絶】】

 繰り返される毎日の中で失っていったものは何だったのだろう。
 過去を振り返るのさえ億劫で、男の意識はただ闇をさまようばかり。

 ここでは時間は繰り返すのみ。
 交わることも、積み重なることもない。
 自然の摂理に反して、ねじれた空間。

 けれどそれすらも、どうでもいいと男は思う。
 存在に懐疑の念を持とうが持つまいが、それが現状にどんな変化をもたらすというのだろう。
 何も変わらない。

 無関心はいつしか彼の心を覆う鉄の壁となり、その結果として男の整った顔を凍らせた。
 自分の感情に気づかない振りをすることを覚えた。
 粟立つような不快感も、適当にあしらえばやり過ごせることも知った。
 執拗にまとわりつく闇色の生物を追い払うすべも覚えた。

 確実に流砂のごとく流れてゆく時間の渦に様々なものを奪われて、男はまだ ここにいる。
 いつになれば自分はここから旅立てるのだろう…。
 祈りの響きを欠片も持たずに、男は独白した。

 深夜。深遠な眠りを突然の痛みで叩き起こされた。
 胸が痛い。
 それはすぐに誰かの絶望のせいだと、闇の守護聖クラヴィスは悟った。
 体内の具体的な個所が痛いのではない。
 漠然とした痛覚が、ゆるゆるとこの身を締めつけるのだ。
 喘ぐように大きな一息を吐き出すと、クラヴィスは褥から抜け出し、一枚上着を肩にかけて普段と変わらぬ足取りで部屋を出た。

 月夜の散策を好む彼の足取りに危ういものは何もない。
 星々は瞬き、月は晧々と大地を照らす。
 この胸の痛みさえなかったら、そのまま魅入っていたかもしれない美しい夜空だった。
 静謐な空間に染みてゆく月光の粒子は冷めざめとしていて、寝起きの彼の思考を少しだけクリアにする。
 だが、こんどこそ はっきりと彼を覚醒させるものがそこにあった。

「アンジェリーク…」

 彼女の自室からかなり離れている森の中で、なぜか栗色の髪をした女王候補が、じっと樹の根元にしゃがみこんでいた。
 名を呼ばれた少女は、驚いた様子もなく、ゆっくりと顔を上げる。

「クラヴィスさま…?」

 栗色の髪がさらさらとこぼれて、大きな瞳があらわになる。
 重なり合う葉の隙間からこぼれる月の光がその薄水色の瞳にそそがれて アンジェリークは眩しそうに目をすがめた。

 彼女が泣いていると思っていたクラヴィスは、それがはずれていたことに少し驚く。
 そして、普段はおっとりとしてはにかんでいるこの女王候補が、いつになく真顔でいることも意外に思えた。

「…何をしている……」

 それは興味ではなく確認だった。
 絶望の発生源がこの少女であるのか否か。

「…悲鳴が聞こえたんです。胸が張り裂けるかと思った…痛くて、苦しくて……いてもたってもいられなくて、走ってここまできたら…
 この子が……」

 落ち着いた、感情を抑えた声でそこまで言うと アンジェリークは両手の中にあるものをクラヴィスに見せた。
 ぐったりとした ひな鳥だった。

「天に召されるところだったんです…」

 おそらく巣から落ちたのだろう。
 生まれたばかりの柔らかな体は、そのショックには耐えられなかった。
 震えるままに痛みと絶望の声をあげたものが、痛覚となって2人の人間に届いたのだ。
 深い眠りから目覚めさせるほど 強く。

「…だから私は、最後まで見守ってあげようと思って……」

 闇に浮かび上がる彼女の白い指が、そっと ひな鳥を撫でた。
 すると、2人を締めつける痛みが少しだけ軽くなる。
 そういえば 自分が目覚めたときよりも ずっと痛みが引いていることに、今ごろになって彼は気がついた。

「お前の力か…」
「いいえ…いいえ、私じゃダメなんです…」

 クラヴィスの言葉にかぶりを振って、アンジェリークは否定した。

「痛みをやわらげることは出来ても、消せないんです。…私ができるのは そこまでなんです。…このこを楽にしてあげられない…」
「……それはお前のせいではないだろう…」

 貸してみろ、と彼女の両手を自分の前に出させると、彼自身ひざをついて ゆっくりとした動きで震えるひな鳥を撫でた。

「…もう、眠るがいい…」

 とても優しい声だった。
 夜の闇からつむいだ繊維のように、ふわりとひな鳥を包み しっとりと柔らかな羽根に染み込んでゆく。

「あ」

 アンジェリークが驚きの声をあげた。
 小さな命の灯火が消える直前に、胸の痛みが霧が晴れるように綺麗に消えたせいである。

「クラヴィスさま…」
「消えたな」

 何が、とは言わない。
 口に出さずとも、2人のもつ感覚で分かる。

「はい。…あの、ありがとうございます」

 勢いよく立ち上がると、彼女は深々とお辞儀した。

「…別に。 礼を言われることはしていない。 お前を真似ただけだ…」

 膝の土をはらって、クラヴィスも立ち上がると、薄水色の瞳と まともにぶつかった。

「いいえ。クラヴィスさまだから、このこを救ってあげられたんです。
 クラヴィスさまが来て下さってよかった…」

 夜の闇の中でも、彼女の笑顔は はっきりとクラヴィスの目に映った。
 今までに何度か見たことがあるはずなのに、クラヴィスは初めて見たような印象を受ける。
 それは夜露が乱反射させる月光のせいだろうか―――――

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