「ジュリアス様・・・?」

 もう一度、アンジェリークが不安そうに彼の名を呼んだ。
 吐息が鼻先を掠めるほどの距離で。
 栗色の髪が風に揺られてこすれあう音すら聞こえる距離で。
 固まってしまった首座の守護聖の胸の中で―――。 

 ジュリアスは彼女を抱きしめるわけにもいかず、かといって離れがたくて、まんじりとも動かない。
 触れられないのだ。
 触れたが最後、今度こそ想いを塞き止められずに彼女を攫ってしまいそうで、「役目すら放棄してただお前が傍にいてくれるだけで良い」と包み隠さずに胸のうちを明かしてしまいそうで、ジュリアスは怖かった。
 自分の中で熱くたぎる情熱が、アンジェリークを傷つけるのではないかと彼は躊躇してしまった。
 だから、もう動けない。

「ジュリアス様・・・」

 アンジェリークが彼の名を呼ぶ。
 決して大きな声ではないけれど、今の二人の距離ならば十分に届く。
 そうして彼女は、ゆっくりとジュリアスの胸に身を沈めるように歩み寄ると、控えめに、身体を預けた。

「そんなお顔をなさらないで下さい」

 うつむいたアンジェリークから、くぐもった声が聞こえてきた。
 哀しそうな、声。
 触れている彼女の指先から、直接ジュリアスの胸に哀しみが流れてゆくような不可思議な感覚をおぼえる。
 ようやくジュリアスはぎこちない動きで、アンジェリークの肩に手を添えた。

「・・・驚かせて、すまない」

 出てきた言葉は謝罪だった。

「いいえ。どうか謝らないで下さい。そして無理もなさらないで下さい。そんなジュリアス様を見るのは・・・つらいです」

 彼女はそっと顔をあげて、だが羞恥のために目をあわすことが出来ずにまた顔を伏せた。
 その動きに合わせて前髪が衣が擦れあい、さらさらと音を立てる。

「普段のジュリアス様に戻るまで、お傍にいさせてください。このまま・・・」
「それは・・・出来ない。アンジェリークよ」

 その言葉に、弾かれたようにアンジェリークは彼の胸から離れようとした。が、今度こそジュリアスの手が彼女の細い肩を押さえて逃がさない。

「・・・あの・・・ごめんなさい私、生意気なこと言っちゃって・・・お気を悪くなさいました・・・よね?すみません。
あのっ、だから・・・!」
「離さぬ」
「でも・・・っ」

 今度は少し力をいれて抵抗したが、ジュリアスはひるまずにそのまま抱きしめつづけた。
 そのまま顔を上げて自分がどんな顔をしているのか見えないように、頭も押さえつける。

「私は、お前とともにいる限り平常ではいられない」

 囁くように、噛み付くように、低い声がアンジェリークの耳元で発せられる。
 微妙に苦々しさを感じる口調だった。
 アンジェリークは次の台詞を聞き逃さないようにと、急に大人しくなって彼に抱かれたままでいる。

「始めはお前が女王候補としてやっていけるのか心配で見ていた。だが最近はどうにも違うのだ」

 もはやジュリアスは認めるしかなかった。
 自分の胸を常に甘く締め付ける痛みの正体を。
 己の焦燥の根源を。

「お前が誰かといるだけで私の心は張り裂けそうになる。お前の口から誰かの名を聞くだけで落ち着かなくなる。
お前の顔を見ないと一日中、気になってしょうがなくなる」

 気まぐれに去来しては思考を絡め取る存在。
 どれほど己を律しても、振り払えぬ雑念。
 いつも考えるのは、たった一つのことだけだった。

「そんな自分を、以前の私なら不甲斐ないと叱咤するだろうが今の私はそれすらも出来ない。・・・いや、むしろその痛みさえ、心地よいと感じてしまっている。私は、どうしてしまったのか・・・」

 アンジェリークは、身動ぎ一つせずにジュリアスの言葉を聞いていた。
 真剣な顔をしている。
 さやかな月光をうけたその表情に、ジュリアスは己の罪を告白する罪人のような敬虔な気持ちになる。
 今まで抑えて、隠してきた気持ちを吐露した反動かもしれなかった。
 荒くれていた心の波は驚くほどに静まり返り、凪のように落ち着いている。

「よかった・・・」

 アンジェリークが呟いた。
 ジュリアスは予想外の言葉に反応が遅れる。
 そのすきに、アンジェリークは彼の胸を軽く押して、戒めからするりと逃れる。

「私、ジュリアス様に嫌われちゃったかと思ってました。昨日のご様子がおかしかったから。でも・・・よかった」

 ふわり、と微笑む。

「嫌われてなかったんですね。ホッとしました」

 ジュリアスは確かめられずにいられない。

「・・・それは、どういう・・・アンジェリーク、お前は私の言った意味がわかっているのか・・・?」

 その言葉に、アンジェリークはもう一度目を細めた。

「はい」
「・・・そうか」

 ジュリアスも微笑む。
 苦悩が深く刻まれた皺は、彼のどこを捜しても見当たらない。

「風が冷たくなってきたな。大切なお前に風邪をひかせるわけにはいかぬ。戻るとしよう」

 彼は左手を差し伸べた。その手にアンジェリークはそっと自分の手を重ねる。
 顔を紅潮させて、はにかんだ。
 その控えめな愛らしさは野原で健気に咲く花のようである。

「私はもうしばらく、この感情に付き合おう。・・・少し、結論を急ぎすぎたようだ。取り乱してすまなかったな」
「いいえ。ジュリアス様の意外な一面を見られて嬉しかったです」

 さらりと失態を認められてしまって、ジュリアスは夜目にも分かるほど赤面した。

「・・・他言無用だぞ」
「ふふっ」

 しばらくの間、ジュリアスがアンジェリークにとる態度がぎこちなかったのは言うまでもない。
 そのたびに、彼女に手と足が一緒になってると指摘されるのも――――。

 

■■■

 

 彼女が自分の感情を拒絶しないだけで、ジュリアスは十分だった。
 時間はまだある。
 これからは、たっぷりと時間をかけて彼女との間を縮めていけばよい、とジュリアスは思った。
 そうだ。
 自分の望みは彼女を独占することではなく、彼女に愛されることだったのだから。
 だから、今度彼女が執務室を訪れたときのために甘い砂糖菓子を用意しておこう。
 今度彼女が誰といおうとも、笑って言葉を交わせるようになろう。
 昨日の謝罪を兼ねて、セイランとアンジェリークを晩餐に招待してもいい。
 自室に戻ったジュリアスは、いろいろと予定を立てながら久しぶりな穏やかな眠りについた。

 後日、招待状を受け取った感性の教官が遠慮なく渋面を作ることを、彼はまだ知らない。

END

 


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